平常心是道(無門関)
平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)
政治家たちがよく、政治課題や政治姿勢を問われて「平常心です」と言う答えを聞く。
この場合の平常心は普段のとおり、格別の構えた思いも無ければ、気負いもなく、淡々とした心境であるという意味で用いられることが多い。

ただ、禅語としての「平常心」とは淡々として、全く心が動かないとか、動じないと言うことではない。
禅語としては、宋代の禅匠、趙州和尚と師の南泉普願禅師の問答に由来する。
趙州問う「如何なるか是道」
南泉曰く「平常心是道」
ある受験生が試験前日「自分はすぐに上がってしまうし、緊張して何時も失敗してしまいます。平常心になるにはどうすればよいですか?」という電話相談をしてきた。 この学生のように、一般的に平常心と言えば何事にも心が動じない、揺れ動かないことのように思われている。
しかし、人生には喜怒哀楽があって、一喜一憂、悩んだり苦しんだり、泣いたり笑ったりしながら心は揺れ動くのが常である。嬉しいときは喜び、悲しいときは涙するのは人として当然のことである。
この揺れ動く自分のその心そのものが我が心のそのときの真実の心であり、さまざまな状況、状態に応じて変化し現れるのが、人の心であり人間としての自然の姿である。
緊張すべきときに無理に平常心を作ろうとか、落ち着こうとあせる心を起すときに不自然な心が働き、かえって変調をきたす。
このままじゃいけない、何とか落ちつこう、泰然としていようとすればするほど緊張は高まり、不安になることも少なくない。
むしろ上がり緊張している我が心こそ、今の自分の真実の姿であり、ありのままの心なんだ、ということを素直に認め受け入れることである。

ありのままの心、ありのままの姿を認め受け入れるとき、そこには自らが否定し、排除しようとした自分の心はなくなり、障りとする緊張感はなく平生の平常心があるのみとなる。
とはいえ、「平常心」は普段のまま、現在の煩悩心のそのままではない。道元禅師の言われる「ただわが身も放ち忘れて仏のいへになげいれて、仏の方より行われ、是に従い行くとき ちからも入れずこころもついやさずして生死を離れてほとけとなる」とある。要は仏のいえ、大自然の運行、自然法爾のままに、一切を御仏にお任せするその心そのままが平常心なのである。



