承福禅寺
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大唐打鼓新羅舞

大唐打鼓新羅舞  (碧厳録)
大唐に鼓を打てば新羅に舞う

 唐の国で鼓を打てば遥か遠くの新羅国では、その鼓に合わせて舞うほどに禅の達人同士ともなれば、阿吽の呼吸のやり取りで事がなるものである。
 肝胆あい照らす如く互いに肚(はら)の通じ合ったもの同士と言うものは、たとえ千里の遠きにあっても距離に関係なく、相い通じるものである。

 この語は碧厳録の「鉄磨 潙山に到る」の項での問答に著者、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)禅師がコメントした中での語である。
 劉鉄磨と言う老尼僧が潙山霊祐禅師に「明日ここから千里ほど離れた五台山で大法要がありますが、和尚は参列なさいますか」と質す。
 潙山禅師はそれを聞くとごろりと横になって寝てしまった。それをみるや鉄磨は即座にその場から立ち去ってしまったという禅者の丁々発止、互いの境涯の駆け引きの中での様子である。

 初対面の大禅師に千里先の寺の明日の法要に間に合うはずもないことをあえて聞くとはある面からかいにも似た質問だ。老獪な老尼ならではのことだろう。潙山霊祐禅師も負けてはいない。これに対して、ゴロンと寝そべってしまうところがまたすごい。これをここに言葉で解説すれば禅者の心境の真意を二義、三義に落とすことになるが、雪竇禅師は「箭(や)は虚に発せず、大唐に鼓を打てば新羅に舞う」とコメントされたのだ。さすがに無駄の矢は発しない。禅者肝胆相い照らすさまが見える。

 禅者の境涯はさておきて、この語の面白さは「心通じ合うもの同士の間にはたとえ千里の距離があろうとも関係なく心は通うものだ」と言うように解釈すれば現代の日常にも活かして用いることが出来るだろう。

「張公酒を喫すれば李公酔う」と言う言葉があったが張さんが酒を飲んだら、李さんが酔ってしまった」という意味で、これは自他の分別を超越した無二一体の心境とその働きと受け取らねばならない語であるが、俗な解釈としては一心同体というか、二人は不二の仲でよく分かり合える間柄の喩えであり、仲のよい友の間柄はツゥー・カァーの仲、お互いの思い、考えまで分かり合えるものである。
 別に緊急の用ではないが、親しき人をふと思い出して電話やメールをしようとしたところ、その相手から先にこちらに電話やメールが届くことがある。
 恋人同士であればそんなことは毎日だよと言われそうだが、そんな時思い出すのがこの「大唐に鼓を打てば新羅に舞う」の語である。

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