承福禅寺
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火炉頭無賓主

火炉頭無賓主 (景徳伝燈録)
火炉頭(かろとう)に賓主(ひんじゅ)無し

 火炉とは今はもうほとんど見ることがないが、昔の民家には囲炉裏と言う暖房設備があり、囲炉裏に鍋を架けて煮炊きをしたり、家族が揃い囲炉裏を囲んで食事をしたり、茶を飲み一家団欒、しばしの時を過ごす場があった。囲炉裏がその家のみんなの絆を保っていたとも言える。その囲炉裏には家長たる主の座があり、妻の座、子供の座が自然に出来ていた。家族ばかりではない。炉辺談話の語があるように、囲炉裏には大勢の者が輪になって火にあたり、酒を酌み交わし主客の別なく語らいの花を咲かせる。火炉頭の「頭」は火のそばと言う程度。この穏やかな団欒の様子には主人と賓たるお客の立場は判然とありながら、お互いの心配りの中に主客を超えた、分別を超えた一体の世界があって、そこは「火炉頭に賓主なし」と言う言葉がふさわしい雰囲気が出来る。

 わが昔の思い出ではあるが、二月厳寒の四国遍路の旅の途中、雲水姿のわらじ履きの行き当たりばったりの気まま歩きから、一夜のねぐらが見つからず野宿することもしばしばだった。
 寒さに震えて目を覚ます。腹をすかせても食うものはなく、薄暗い間に歩く出し、次の札所へ向かう。道端は白髪をすいたような長い霜柱が立っている。寒いはずだ。白々と夜は明けて人々が動き出し静けさを破る音が妙に嬉しく、人懐かしく聞こえた。行きかう人に挨拶を交わしながら歩いていると、工事現場の仕事前の焚き火の輪を見つけて、輪の中に入れてもらい暖を恵んでもらう。

 かじかんだ手指がじんじんと溶け出すように痛いが体はホカホカとなり心もとけだし言葉もほころんで職人さんたちとの会話もはずむ。一服のタバコや熱い茶も振舞われて、つかの間の団欒に主客を忘れてしまった。仕事の開始時間がせまり、別れとなれば幾人かがお接待だよと布施を下さる。まさに火炉頭を囲めば賓主はなかった。賓主とは賓客と亭主の関係をいい、相対的差別を表す語で、一般的には長幼、貴賎、凡聖、賢愚など分け隔てる言葉の中でも賓主の語は一般的な語であるが禅門では好んで使われる。臨済録に「賓主歴然」はあり、公案となっていて臨済禅師の言葉のようにさえ思われるほどである。

 ある日、西堂、東堂の両堂の首座和尚同士が禅問答で同時に「かぁ~っ」と一喝を出し合ったことに対して、居合わせた僧は師に「今の両首座の『喝』に賓主、優劣はありましょうか」とたずねたところ臨済禅師は「賓主歴然」、すなわちはっきりを優劣は付いているよと応えられたのであるが、これをお前はどう見るか、あなたの見解はどうかな?と言うのが賓主歴然の公案なのである。

 公案の見解については何にもいえないが、言葉での理屈を言えば、人間はもちろん万物は宇宙の大生命の一であり、皆一味平等で差別はない。
 しかし、その反面それぞれ姿かたち、動き、個性の皆違い、万人万様、千差万別、大小、長短あり差別明白である。両首座の一喝、賓主歴然でありながら、また両者平等一味の境涯があり、また主客一如の賓主無しであるともいえよう。

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