笠重呉天雪 鞋香楚地花(景徳伝灯録)
笠は重し呉天の雪 鞋は香し楚地の花
唐の詩僧 可士の「僧を送る」と云う題の詩
一鉢即ち生涯 縁に随って歳華を渡る
是れ山に皆寺あり 何れの処にか家ならざる
笠は重し呉天の雪 鞋は香し楚地の花
他年禅室を訪わんに 寧(いずく)んぞ路岐(ろき)の(はるか)なるを憚(はばか)らんや

昔、雲水(修行僧)は僧堂での安居(修行期間)が明けるとよく諸国を旅し師を訪ね、道をさらに求めたものだ。その行脚の僧の財産と云えば、ただ鉄鉢が一つあるだけだ。それで托鉢をやり糊口をしのいで生活し、縁にしたがい境にまかせて西へ東へ、あたかも雲の風に流れるごとく、また水の流るるごとく一所にとどまること無く歩き、歳月を送る。そんな中にもいたるところには、寺があり、師があり、道がある。是がみなわが家であり、わが修行道場ならざるはなしである。なりきっていくならば、行脚していても決して苦しいとか辛いことなんてありはしない。
私が昔かって、呉の国を歩いているときには雪に降り込められて、笠にずしりと降り積もり、いたって難渋してしまったことも楽しい思い出だ。楚の国に入ったときは春盛りで、花は咲き乱れ、落花の中を踏んで歩いたものだ。まことに楽しく印象深いものだったよ。だから、禅法の師、仏道の師を訪ね、法を問い歩くのに、どんな遠い道のりがあろうとも、何年かかろうとも決して辛いとか厭だということがあろうか。
最近は行脚する雲水の姿を見ることはなくなった。その分、禅法の衰微につながるとは言えないまでも、禅者の境涯何処への感がしないまでもない。行脚そのこと自体に価値を置くことはないが、しかし、それほどまでに仏道の参究し、草の根をかきわけてでも師を訪ねるだけの求道精神は見習わなければならない。その精神は何れの道にも通じることであり、道を探し、究める心の修行は辛いことも多いが、逆にまたその辛さの分の何倍もの大きな楽しみを得ることが出来る。

私は、禅法の道を求めての修行行脚と云うことではなかったが、昔、雲水のとき四国八十八ヶ所の遍路の旅をしたことがあった。真冬の2月、昭和三十何年だったか丁度大寒波が襲った年である。南国足摺岬に厚い氷がはり長い霜柱にびっくりしたりで、素足の草鞋履きは泣くほどに痛く、冷いものであった。そんな中での行脚はさまざまな人たちの温かいお接待や励ましを頂いたのも雲水の姿、修行者として皆さんが尊んでくださるのも先徳のお陰であることを思いながら、少なからず報恩を誓ったものだったが・・・「が」と云うところが情けない。



