承福禅寺
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擔雪塡古井

擔雪塡古井(祖英集)
雪を擔(にな)って古井を塡(うずむ)

 今年の冬は雪国では大変な豪雪となり家屋が圧しつぶされたり、道路がふさがれて孤立集落も出て懸命の除雪が行われたようだ。道路脇にはうず高く積まれたほか、除雪の捨て場は川や河原である。ダンプカーで次ぎ次ぎに運びためにその捨て場さえ満杯となり山積み状態であったと聞く。この時思い出したのが、「擔雪塡河」(雪を擔って河を塡む)の語である。その類語としてあるのが、この「雪を擔(にな)って古井を塡(うずむ)」である。

 先年、不要の古井戸を潰したいのでお祓いをしてほしいとの求めに応じたことがあった。長年当家の生活を支えてきた井戸だから、そこらの残土で埋めるのでなく山から運んだ清浄な土で埋めていただいた。その時、この井戸を塡るのに雪をかついできて、せっせと井戸に投げ入れる馬鹿はいないことだろう。水は増えても井戸は埋まりはしない。骨折り損のくたびれ儲けで、そんなバカバカしい愚行の例え話としてあるのが「雪を擔(にな)って古井を塡(うずむ)である。

 これは糠(ぬか)に釘を打つようなナンセンスなことであり、無駄で非合理的な行為で何の意味もないことである。こんな愚かな行為を評価する人は誰もいないことだろう。ところが、禅者は違う。この無駄でくたびれ儲けの行為を高く評価する偏屈なところがあるからおもしろい。

白隠禅師の「毒語心経」に

徳雲の閒古錐(かんこすい) 幾たびか妙峰頂を下る
他の痴聖人を傭って 雪を擔(にな)って共に井を塡(うずむ)

とあるが、この語のもとは「華厳経」にあるという。徳雲とは人の名で昔の高徳の人で、閑古錐とは切尖がすり減って丸くなった役立たずの錐(きり)のことだが、この語も禅独特な言い表しで、もともと鋭利な錐の角もとれ、丸くなった状態をあたかも修行によって積み上げ、練り上げてさらに悟りの臭みもなくなった真の悟りの境涯に例えた言葉として好む。徳雲という方はそういうすぐれた人なのだ。
 その徳雲尊者は悟りの世界の妙峰から娑婆世界に降りてきて、自分と同じ他の愚に徹する聖人と共にせっせと雪を運んでは井戸をうめるような全く無駄なことをされていたという。この無意味な行為に真の意味をみつけるところがこの語のねらいだ。

 現代はとかく合理性が尊ばれ、「費用対効果」の経済観念が優先し無駄なことや非合理なこと、成果の上がらないことはすべて否定され却下されてしまう。
 だが世の中は必ずしも合理性とか理にかなうことばかりではない。感情、心情を持つ生身の人間である以上必ず理屈を超えた、合理性では割り切れない、損得を超えた事柄や行為があるはずである。

 今年は釈尊没後2555年になるが、釈尊をはじめ今まで様々な祖師、先徳が衆生済度、世のため人のために尽くし、また世直しのための社会運動に挺身されてきたことである。確かに時代と共に文化の向上、文明の進展はうたがえないことであるが果たして、その混迷のかつての時代と今日とどれだけ社会はよくなり、平和の実現にいたっただろうか。戦争、差別、格差社会はそれほど変わってはいないかもしれない。だから、先師、先徳方の活動や努力は無駄であったとは言えない。このように世のため人のために一身をささげ尽くすということは、たとえ結果は得られなくても、人間本来の純粋な心からの行為は美しく、たとえ雪を擔って古井戸を塡ように見えても、永遠の目的のために努力し続けることは大きな意味を持ち、決して無駄ではないことである。

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