日照昼 月照夜 (雑阿含経)
日は昼を照らし 月は夜を照らす
季節は今は梅雨の真っただ中。北部福岡地方は雨もまだまだ降り足らぬ気もするが、長雨が続けばやはり太陽の日も恋しい昨日今日である。有名な〝菜の花や月は東に 日は西に″の与謝蕪村の句にあるように、一日の内にお日さまとお月さまとが同時に見える日がたまにはあるが、私たちの常識的観念からいえば太陽は昼間に輝き、月は夜に照らすものである。この意識もしない日常の「日は昼を照らし、月は夜を照らす」という当たり前のことばながら、梅雨曇り、節電が叫ばれる今日、あらためて光のありがたさを考えさせられてしまう。

日月星辰の運行の中にあって昼夜があり春夏秋冬の季節を刻み、毎日毎日、一時一刻も休むことなく繰り返される自然の法則のもとに私たちは生かされていることである。
しかも太陽の光も、月の耀きも私たちに何の見返りを求めることなく、惜しみなく注ぎ、命を育み、闇夜から解放して人々に安らぎを与え続けて来たことである。
どこかの電力会社のように燃料が乏しくなって電気の供給不足になるから料金値上げというような請求もない。
万民に遍くで、金持ちだろうが貧乏人だろうが皆平等で、一切ただで無制限、取り放題、使い放題なのである。
当たり前と言えば当たり前のことながら、光あっての私たちの存在である。ところが、その太陽の恵みから派生する諸々の自然の恵みを現代の私たちは当然のこととして受けとり、豊かさを築き上げたことである。私たち現代人はこの豊かな生活の中に、自然への畏敬や感謝する気持ちを失ってしまっていたのではないだろうか。太陽の光がなければたちまちこの地球は冷え込んで、やがて氷の星となって人類はおろかほとんどの生物は死滅してしまうに違いない。だから自然と共に生きてきた太古の人々は太陽の偉大な力を働きを知り、太陽を神と崇めて拝み祀って感謝をささげて来たことである。
神道の天照大御神も仏教の大日如来も別名の奈良の大仏である毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)しかり、太陽の神格されたご存在である。また親しみある阿弥陀仏とてやはり無量寿、無量光と呼ばれるように太陽の限りない無量のはたらきに由来している。このように考えるとき、「日は昼を照らし、月は夜を照らす」という言葉を単に当たり前だと受け流さず、その事実を深く味わい、今ある命について考えてみることにこの言葉の意義がある。
当たり前として生きている毎日をふりかえると、朝、顔を洗う時蛇口をひねれば水が出る、新聞が届いている、スイッチを入れると電気がつく、TVは映る、お湯は沸く。当たり前だけど本当にそれは当たり前なのかなぁ。

昔、子供の頃はお風呂は井戸から釣瓶で汲み上げ、バケツで何十杯も運んで水を注ぎ入れ、薪を焚いて沸かしていたからお風呂に入るのも大変な思いであった。
そんな時代を経験したことをありがたいとは思わないが、当たり前のことをあたり前だとは安易に受け流すことなく、当たり前こそ実はとんでもなくありがたいことのだと思える。そんな思いが出来、感謝できるときこそ「日は昼を照らし、月は夜を照らす」の精神が真にわかるのかもしれない。



