宝剣在手裏
宝剣 手裏(しゅり)に在り
ここでいう宝剣とは単なる刃物としての剣ではなく、迷妄、分別妄想をずばりと裁断する金剛王宝剣のことである。また宝剣は仏教における精神的支柱としての意味合いを持ち、大乗仏教の根本的教理に基づく仏性を意味し、また禅でいうところの本来の面目と言ってもよい。聖武天皇が建立した東大寺の大仏の足元に納められていた国宝の2本の太刀がX線調査の結果1250年ぶりに光明皇后が天皇遺品として東大寺に奉納した陽宝剣と陰宝剣であることがわかったという事を聞いていたが、仏教における宝剣は金剛王宝剣ともいわれるように仏法そのもの象徴でもあり、般若の智剣ともいい、一切の迷妄を一刀両断する法剣でもある。

凡夫たる我々はいつも貧富、貴賤、老若、男女、白黒、左右に相対の中にとらわれ、迷い彷徨っているといってもよい。その衆生の迷妄を裁断すべく、仏の世界から文殊菩薩の智剣を持って、あるいは破邪顕正を示すがごとく炎に燃え憤怒の形相と宝剣と鎖綱を携える不動明王も仏法の世界へ導く仏の慈悲の姿のだ。
だが、我々凡夫は世俗の移ろいの中で、一喜一憂、喜怒哀楽しながら生きて来ているが実は「衆生本来仏なり」と言われるように、悟ってみれば「宝剣 手裏(しゅり)に在り」で一切衆生、すべての人々にも本来円満具足の仏性、仏智、宝剣(仏の智慧)は備っていることなのである。
ただ凡夫はそのことに気付かないでいるだけの話なのだ。本来具有の宝剣、仏性を曇らせ錆びつかせて、仏性のあることさえ知らないという事かもしれない。その本来の仏性に目覚め、宝剣を手に入れ我がものとして自由自在、縦横無尽に宝剣を生かし使いこなすことにより、自らが生き人をも救い、生かす活人剣となるのである。
これは単なる知識、理論理屈でわかっても実際に自己の修行練磨によってこそ「宝剣手裏(しゅり)に在り」は自覚されることなのだ。
さらにまた、手裏の宝剣も常に用い活かして磨いていかなければ、飾りに過ぎず錆てしまい役立たずにもなりかねないという。
大徳寺の開山・大燈国師でさえの遺偈において
截断仏祖、吹毛常磨
(仏祖を截断して、吹毛常に磨す)
機輪転処、虚空咬牙
(機輪転ずる処、虚空、牙を咬む)
と述べられている。

この語は非常に難解で、国師の真意を解せずに解釈することは不遜ではあるが、仏祖すなわちお釈迦様や歴代の祖師方の教説に照らし、仏祖を截断すというのは 言葉、観念に囚われないと言うことで、理論理屈を裁断(断ち切り、とらわれることなく)、吹毛と言われる(吹毛剣のことで碧巌録の「巴陵吹毛剣」に出てくる)細く柔らかい羽毛でも、ちょっと吹きつけ触れただけですぱっと切れてしまうような鋭い刃。そんな伝説の剣も常に磨いていないと、曇って切れ味を失うという事なのだ。修行に終わりなしで、常に自己の心の修練練磨を求めなければならないという事である。



