春入千林處々花 秋沈満水家々月 (禅林句集)
春は千林にいる處々の花 秋は満水に沈む家々の月
過般、隣町のお茶人さんから茶掛けにするからと「春入林處々鶯」の一行書の依頼を受けた。初めて書く語なので「なんでこの語なのか?」を訊ねたら、表千家家元の初釜の床にこの字お軸をかけるのが慣わしであるということであった。

表千家の何代目の宗匠なのかは私は知らないが元伯宗旦の揮毫によるものらしい。早速「禅林句集」を開き確かめてみると、「處々鶯」でなく「處々花」であつた。わざと宗旦は花の字を能動的な鶯の文字に置き換えて茶席の中に春を呼び込もうとしたのだろうか。「鶯」にせよ「花」にせよ、いづれにしても意味は同じことで、春にはどこの林や野には草木が芽吹き花盛り、秋にはどこの家にもつきは輝き、どこの水にも月は宿る。このように、仏法の光も遍く照らし、人という人みな仏性のない人はいない。
道元禅師の歌に
“峰の色 谷のひびきもさながらに わが釈迦牟尼の声と姿と”
野にも山にも仏の教えは満ち溢れ、自然法爾(じねんほうに)と云い、無情の大自然は常に説法をたれている。自然と云うことばは幅広い、多様の意味合いがある。
自然保護、自然環境とか、自然とのふれあいなどと単に自然(しぜん)と云う場合の自然は、人為的、人工的ではない、つまり人の手が加わってないそのままの状態を言うが、大自然と云う場合は、天地万物とか、時には神仏の世界を表わす意味としての言葉にもなる。

大自然の摂理とか、大宇宙の摂理とかいえば大自然そのものが法身仏の世界、神仏の世界をあらわすことばでもある。また、仏教的に云う自然法爾(じねんほうに)の自然(じねん)とはありのまま、そのように、神仏のしめしのままに、仏の世界そのままにと云う、まさに道元禅師が言う「ほとけのかたへなげいれて、ちからもいれず、こころもついやさず」のようなところであろうか。このような心でこの言葉を味わうと好い。

仏の教えは野に山に満ち満ちている。大自然の流れを感じ取り、自然の気を肌で感じ、自然のいのちの鼓動をきき、心また魂で感得するがよい。日本人は古代より自然の営みの中で生きて来た。生活の中に豊かな自然を取り入れ、自然の中から日本の精神文化は醸成させてきたのではなかろうか。
またその四季自然の風光の中で日本の禅も育ちなじんできたといっての過言ではない。その土壌から茶の湯の道が生まれたのだ。また華道も然り、そして俳句、和歌、絵画すべてにおいて花鳥風月のこころを含んで伝統化してきたのが日本文化であろう。



