庭前柏樹子 (無門関)
庭前 (ていぜん) の柏樹子 (はくじゅし)
一人の僧が趙州(じょうしゅう)和尚に問う。「如何なるか是(こ)れ祖師西来意(そしせいらいい)」「祖師西来意」とは達磨大師が仏教の真髄である禅を伝えるため、インドからはるばる中国へ来られた意味とは何か!ということなのだ。ということから祖師西来意は禅の真髄を意味する語として用いられる。つまりこの問いは「禅」とは何か、「仏」とは、「悟り」とは何かという事である。

これに対して、趙州和尚は、「庭前の柏樹子」と応えただけである。柏樹は、日本の広葉樹の柏餅のあの柏のことでなく、常緑樹のカイヅカイブキと同種の柏槙(びゃくしん)のことで、いまでも中国の寺院では大木の柏槙をみるが、趙州のいた観音院でもこの柏樹が茂っていたのだろう。「子」は助字で特別の意味はない。 僧が続けてたずねた「和尚、境(きょう)を将(もっ)て人に示すこと莫(な)かれ」―私は禅とは何か、仏法とは何かと聞いているのですよ。境、即ち心の外の物で答えないで下さいな。
趙州和尚云く、「我れ境を将(もっ)て人に示さず」――いや、私は決して心の外の物で答えてはいないよ。そこでまた、僧が問う。「如何なるか是れ祖師西来意」。趙州和尚、また厳然として、「庭前の柏樹子」とお応えになった。
この僧は心と境とを対立的に見ての問い、また趙州和尚の「庭前の柏樹子」の応答を聞いているから趙州の心と境と一体、心境一如の言葉が理解できないのだ。ただ、庭前の柏樹子、天地一枚の柏樹子である。祖師西来意だとか、禅だとか、仏だとか、悟りだとかいう小理屈は捨てさった絶対的な境涯、思慮分別を超えた徹底的な「無心」の心を趙州和尚は示そうとしたのだ。




