承福禅寺
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独来独去 無一随者

独来独去 無一随者 (大無量寿経)
独り来たり独り去りて 一つも随う者なし

富有にして慳惜(けんじゃく) し肯 (あ) えて施与せず 

宝を愛して貪ること重く 心労し身苦しむ

是の如く竟(おわ) りに至れば 恃怙 (じこ) とする所無く

独り来たり独り去りて 一つも随う者無し

慳惜とはもの惜しみする心。恃怙とは頼むこと、頼りとすること。富裕家でありながら、ものおしみする心があって、あえて他の人に施しをしないで、財宝を愛し財への執着が強いと、却って自分自身の心労が重なるものである。貧寺の住職の私にはあまり財産管理や寺財の運用や税金の心配も悩みも全く知りませんが、貧乏には貧乏人の悩みがあり、金持ちには金持ちも悩みもあるらしい。

どんな大富豪であっても、その財産は死んであの世へまで持ってはいけないことは誰でも分かることだろう。しかし、その財欲物欲は捨てがたく、多く持つ人ほどその悩みは深刻かもしれない。人が死んであの世へ持っていけるのは、業と徳だけだなのだ。修証義に「己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり」とある。たとえあまた金銀財宝持つ人も冥土へは携えていく事は出来はしない。

人は人それぞれに別人格があり、それぞれの人生がある。たとえ双子、三つ子、四つ子として生まれてきたとしても、歩いていく人生の道のりは決して同じではあり得ない。それぞれが独り生まれ来たり、そして独り死に往くしかないのだ。

雑阿含経の中に語られる四人の妻を持つ大富豪の話がある。第一の妻は常にそばにおき、寵愛し、いつも寝食をともにした。第二の妻は第一夫人ほどではないが、人と争ってまで我が妻にしただけにそれなりに可愛がっていた。第三の妻とは時々合って談笑し喜びかなしみを分かち合った。第四の妻は常に夫に仕え、まるで奴隷のように働き尽くしたが、男はその妻をかえりみようとしなかった。この男、病に伏し、いよいよ死での旅立ちを考えるほどに気弱くなってしまった。そこで、第一の妻を呼び、「自分の死での旅立ちに一緒にきてくれないか」と頼んだ。ところが、あっさりと断られてしまった。次に、第二の妻に頼んだが「第一夫人が行かないのにどうして私が行けますか」とまた断られてしまった。その次の第三の妻に頼んだら、「私はお世話になりましたから、村はずれの火葬の場までは御伴は出来ますが、それ以上は御伴は出来ません」と結局断られた。

仕方なく第四の妻に頼んだところ、「私はあなたにいつも虐げられ、疎んじられてきましたが、私とあなたは切れない関係にあり何処までの御伴いたしましょう」といい、男は今まで一番疎んじていた妻を伴いて死での旅路につくことになったのである。

この逸話の第一の妻とは身体のこと、第二の妻は財産のこと、第三の妻とは肉親友人のこと、第四の妻とは心であり、我が魂のことである。本当に何を大事にしなければならないのか、考えねばならないことである。
またこの語には「独り来り独り去りの無一物、無心の悟りに徹する時、煩悩妄想のかけら一つさえ、己の考え、思考の中に湧き随うものはない。また乾坤只一人」という禅的解釈として、始めて禅語として成り立つ。

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