明歴々露堂々 (禅林句集)〈めいれきれき ろどうどう〉
承福寺の境内の大きな渋柿の木が、深まり行く秋の訪れと共に紅葉し、そして散り去って赤く色づいた柿の実だけが生(な) り残り、今の初冬の空に輝やいて、めじろやひよどりなどの小鳥たちをまねきよせている。今年は日照りが強く、雨も少なくて落果が激しかった。

青葉に覆われている時はほとんど柿の実は見えなかったので、今年の収穫はゼロに近いと思っていた。ところが、葉っぱが散って
しまってみれば、残っていた柿の実がはっきりと堂々と表れ出て結構、成り残りがあったのだと気づく。
葉っぱの青に混じってまだ色づかぬ青柿はもともとそこになっていたのだろうが、ぼんやりとしか見ていない私が気づかなかっただけで、もとより柿は「明歴々、露堂々」としてあったのだ。
「明歴々 露堂々」とは、すべての存在が明らかに、すべての物事がはっきり現われ出ているさまで、そのままの姿のすべてが真理の現われであり、仏の表れであるという意味である。仏法とは必ずしも神秘的で深遠高尚なものではない。
松に吹く風の声、垣根の下の小さな野の花にも宇宙の大生命が息づき、明歴々、露堂々とあらわで出ている、そのことを感得するところに禅の妙味があり、茶禅一味の味わいがあるというものである。

人生においても、執われず、あせらず、気取らず、ごまかさず、素直で、ありのままに堂々と生きたいものである。自分を飾れば不自然だし、虚勢を張り強く見せたり偉ぶれば、理論武装や無理がいく。神仏に頂いた、与えられた立場や環境の中で神仏と共にあってかくすことなく堂々と生きようとするところに、この言葉が輝く。



