無功徳 (むくどく) 〈虚堂録〉
文字通り「功徳なし」の意だが、禅語では無功徳 (むくどく) と音読みをする。功徳とは要はご利益(ごりやく) という意味に理解してもよいだろう。この語が禅語として重用されるのは禅宗の祖、達磨大師と中国・梁の武帝の問答の時の達磨の返答の言葉からである。達磨大師はお釈迦様より28代目の法孫。インドより中国に渡り禅法を伝えた聖者であり嵩山の少林寺に入り面壁9年の座禅として知られる

武帝も人々から仏心天子と呼ばれるくらいに仏教への造詣深く、自らも仏典を著すほどで、仏法の興隆へ寄与した方であった。その武帝がインドより大変偉い聖者が来たということを知り、直ちに達磨を宮中へ招き問答に及んだ。
「朕、即位以来、寺を造り、経を写し、僧を渡すこと挙げて記すべからず、何の功徳か有る」
達磨応えて曰く「無功徳」
仏教には善因善果、 悪因悪果ということが言われる。善事善行には必ず善果あることは仏教の通説なのである。仏教への篤信者の武帝は様々に仏法の興隆発展に尽くしたという自負があり、鼻たかだかであっただけに、達磨から「死後の極楽仏土への往生、菩薩位への生まれ変わりがあろう」ぐらいの言葉を期待していたはずだ。だが、達磨からの返答は「功徳なし」という意外な言葉に武帝のがっかりさが伺える。
達磨が言う「無功徳」は例え善事善行をなそうとも、あれもした、これもしてやったと果報を求めたり、見返りを求めて行う打算的善行は真の善行ではないという諭したのだ。つまり信心、信仰はご利益を求めて行うものでなく、喜捨奉納も功徳を求めて施すものではないのだ。

真の信仰は、自らの見返りのない無心にして真心からの施し、神仏へ絶対帰依心による祈りであり、施しであり、誓いである。



