無事是貴人 〈無事是れ貴人(きにん)〉
この語句は茶掛けとして茶道家のお好みらしく、よく揮毫を頼まれたものである。といっても私にではなく、昔大徳寺の僧堂時代、当時の管長であった小田雪窓老師の侍者をしていた時の話である。老師のもとに、茶人や道具やさんが染筆のねがいに来られ、「無事是貴人」の語句を所望されたものである。

この語の本来の意味合いではないが、「何より無事がめでたいことであり、無事の日々の生活が出来ることは尊く、そのことが出来るひとこそ貴い人なのだという解釈がなされてこの句をありがたがるのであろうか。だが、出典の臨済録における本来の意味合いは少々異なる。
無事是れ貴人、但(た)だ造作すること莫れ、祗(た)だ是れ平常なり。(なんじ)、外に向かって傍家(ぼうけ)に求過(ぐか)して、脚手を覓めんと擬す。錯(あやま)り了れり (臨済録)
ここでいう「無事是れ貴人」の貴人とは一般的ことばの貴族とか貴婦人の貴ではなく、真に貴ぶべき人、すなわち道の完成をなす仏であり、また一大事の悟りであり、大安心を得たる人を指す言葉である。また無事とは、一般的に言われる平穏無事の無事でなく、また何ごともなく平々凡々とした無事でもない。「ただ、造作すること莫れ」と言われように、あれこれと心を労し、いたずらに善だの悪だの、美だの醜だの、悟りだ迷いだと無駄な考えや分別をすることがあろうかと禅師は戒められる。
平常のありのまま、そのままでいいではないか。お前さんたちは外に向かって道を求め、わき道、脇見をしては悟りの手がかりを求めているようだが、それは間違いであり、心得違いもはなはだしいことだ。「求心歇(や)む処、即ち無事」と臨済禅師はいわれる。

白隠禅師も「衆生本来仏なり」とのべ「遠く求むるはかなさよ」とうたわれる如く、私たちは皆生まれながらにして仏性をいただいていることなのである。そのことを抜きにして他に仏や悟りを身につけようとすることは愚かなことであると気づかなければならない。即ち、何の造作作為なく衆生本来仏なりのところに徹してこそ、無事是貴人なりと言えるかもしれない。



