雲在嶺頭閑不徹 水流下太忙生 (虚堂録)
雲は嶺頭に在って閑不徹 (かんふてつ)
水は下(かんか)を流れて太忙生(たいぼうしょう)
閑不徹とは徹底した静けさ、静寂さであり、太忙生はざわざわと大変忙しいさまをいう。雲は遥かかなたの嶺の上に静かにぽっかりと浮かび悠々として動く様子がない。一方では水は谷川をざわざわと忙しく流れる。雲の静かなさまと水の忙しげな動き対比したさまであるが、雲の動きと水の動きは全く異なるが、いずれも無心の動きである。動静不二、静中動、また忙中閑ありの心境を表す。

私たちの日常は忙しく、めまぐるしくとどまることが無い。また、今日の社会とてまことにあわただしく、騒然たる動きである。目も塞ぎたくなる事件、犯罪、政治家の不祥事は後を絶たず、異常な気象とも関連したのか社会は平常さを失って右往左往している感がする。そういう利害得失、喜怒哀楽の世界にありながら、だからこそ、心においては捉われず、流されず常に嶺の雲のようにおおらかに、穏やかに無心の心でありたいし、また忙しく流れる谷川の水のようにであっても、何の捉われなく、さらさらとした無心の動きでありたいものである。
自分自身の反省でもあるが、なぜかいつも忙しい忙しいと与えられた役目ごなしで追いまくられて、近頃すっかりゆとりをなくしている自分である。よく聞く言葉であるが「忙しい人ほど多くの時間をもつ」といわれるが、なるほど、出来る人はさまざまな仕事をこなし、ボランティアに励み、またその上に十分な余暇を楽しんでゆとりある動きをしている人を見かけ感心させられる。五十、百の肩書きを持つ人もいる。すべてに実働しているわけではないにせよ、すべての役に責任を持ち指示し動きを認識して組織を動かす人がいる。その人は超多忙の中にも時間を多くもち、ゆとりある動きをされているのを見て驚かされる。中国の趙州和尚は「人々は二十四時間に使われているが、私は二十四時間を使う」と言われたが、万人に与えられた時間は一日二十四時間である。しかし凡人の私は仕事におわれ、忙しい忙しいと時間に追われ、時間に使われている事に気づかされる。
出来る人は忙しければ忙しいほど時間を作り出し二十四時間を二倍にも三倍に活用しゆとりを生み出し、忙中閑の生き方を可能にしている。こんな心境から「雲は嶺頭に在って閑不徹(かんふてつ) 水は下(かんか)を流れて太忙生(たいぼうしょう)」の言葉は生まれるのである。

この対句は中国・報恩寺の虚堂智寓禅師が報恩寺を去るにあたって行った説法の偈である。虚堂智寓禅師は今日伝わる臨済禅の招来した大応国師(南甫紹明)の師であり、今年はその大応国師の七百年忌法要を崇福寺で行うことになっている。それに先立ち九月三十日より十一月四日まで福岡市立美術館において大応国師の遺徳をたたえ、虚堂禅師関連資料を展示し「大応国師と崇福寺展」を行う。承福寺からも関連資料を一点提供展示する。



