心随万境転
心は万境に随って転ず
さらさら流れる春の小川の風景は久しく見ないが、只さらさらゆく水の流れは止まることなく何の計らいも執われもない無心そのものはたらきだ。しかも自由無心であればこそ、さまざまな万境の変化にもまた、あらゆる因縁があろうとも己を見失ったり、他に引きずり回されるということもない自在無碍の心境。この語は禅宗伝法祖師22祖の摩拏羅(まぬら)尊者の伝法の偈(げ)である。

心随万境転 心は万境に随って転ず
転処実能幽 転処実に能(よ)く幽なり
随流認得性 流れに随って性(しょう)を認得すれば
無喜亦無憂 喜びもなくまた憂いもなし
人の心と言うものは、外界の現象に惑わされて揺れ動き、移ろい変わりやすものである。しかしその外界の現象に執着することなく、無心無自性であれば自由無碍であり、まさに幽玄なる心境にあるといえる。たとえ外界はたえず揺れ動き、激しく変貌することがあっても、心中においては常に平常であり喜びも、悲しみも時の流れのままに処して何のわだかまりもなく、随処に主となるところの境地である。
言うはやすく、行うは難しと言うように、私たちの心は平常無事な時は、外界の変化に応じて即応出来、何とか無事に転じ過ごしている。しかし異常事態や緊急事態の発生は人生にはつきものである。そんな不意な事態にあっても、動ぜず万縁万境に即応して心は円滑に働きその時、その場に応じた適切な応えができるだろうか。
人生には喜怒哀楽はつきものである。悲しみ、喜びはあれど、実はその実体は何もなくただ、縁に随い、感に赴いているにすぎないのだ。すなわち「心は縁に随って転ずる」だけなのだ。このように悟れば喜び悲しみあれどその時その時、その場その場に応じて自ずから心のままに泣き、また悲しみ、また喜べばよい。心のままにあって二念、三念なければ転処実によく幽の境いられよう。
承福寺の親寺である崇福寺の開山様の大応国師で、今年は700年の遠忌に当たる。大応国師は中国に渡り虚堂智愚禅師の下で修行されてのち、帰国されてしばらく大宰府の横嶽の崇福寺に住されていた。ある時所用で近在の曹洞宗の岩屋寺を訪ねられたとき、禅堂の版木に「心随万境転 転処実能幽 云々 」の偈文を見られて、案内の僧に「この中のどの字が一番大切と思うか」と問われた。

その僧は「先師の遺誡により幽の字に参じています」とこたえたと言う。国師は黙って聞かれただけで、そのまま自坊へ帰られて、侍僧に「岩屋寺の僧は幽の字が大切だといったが、実は転の字がもっとも肝心なところだ」といわれたと言う。小生には国師の真意は測りかねるが、幽で満足してそのところに止まることなく、転じてこそ心境はふかまり、禅法はさらに転じ広がり流布されるものであることを思われたのかもしれない。



