萬法帰一 (ばんぽうきいつ) <碧巌録>
萬法は一に帰す
萬法とは一切の存在は因縁によりて生ずる自然の理法であり、一とは万物の根源であり、大宇宙のすべてのものは一から生じ、一に帰するとされる。その唯一絶対の当体はそのまま萬法に貫く道理でもある。従って萬法帰一とは天地万物のすべては唯一絶対の根源的真理に帰入することをいい、また森羅万象の一切はそれぞれに根源としての真理の道理が貫かれているとする。仏教ではこの一を真如(しんにょ)といい法性(ほっしょう)といい一心といい自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)という。

荒っぽく言えば、浄、不浄・善悪・好悪など一切の分別も分かたない、一切合切を含むところの世界であり、そのままがまた実相でもある。この世の現象のすべては、絶対的実相から生じ出たものであるから、結局はその実相である一に還元されるのがまた道理である。 華厳経の中の「一即一切、一切即一」の語はよく知られる。これは、一つの微塵がそのまま宇宙の命を表し、また宇宙は一つの微塵もその命からはずさず、個と全体が有機的に統合する壮大な宇宙を示していると云うことである。簡単言えば、あらゆるものが一つにつながり、関わりあって存在しているということである。
この考えを前提としてこの趙州の「萬法帰一」の問答が始まっている。ある僧が趙州に問う「萬法は一に帰す、一何れの処にか帰す」・・・(すべてのものは一に帰すといいますが、それじゃぁ、その一はどこに行くのですか)すると趙州は「わしが青州におったとき、一領(一枚)の布衫(ふさん・・短い衣)を作ったが、その重さが七斤あったよ」さらりとと答えた。
常識的にみれば、趙州の答えは僧の問いとは何の関係も無い答えてにしかみえない。たしかに傍から見れば「さっぱり分かりません」と云うのも無理は無い。禅家では、冷暖自知いうて、おなじ冷たいと言うても、水・氷・鉄それぞれの冷たさがあって、実際の冷たさに触れてみないと分からんというのが禅の教えでもあるから、分からんのがあたりまえかもしれない。
むしろ一遍で分かる方がむしろ不思議である。この句の意味を真に体感しようと、何十年も修行した僧が昔から大勢いるのだから、分らなくて当たり前なのかもしれない。とはいえ、ここで解説をうやむやにしてしまうわけにもいかないので、結論だけは示しておきたい。

僧の問う「一何れの処にか帰す」に対して理屈でもって答たえるならば「その一は萬法に帰す」ということになるかも知れないが、そんな理屈をこねまわしていては禅者の答えにはならない。趙州が「一領の布衫の七斤」という言葉には単なる昔の思い出話ではなく極々日常の著衣喫飯、起居動作、一挙手一投足のすべてが一に帰すところである。一がどこに帰すなどと野暮ったい屁理屈など無用のことだという境涯を表わした答えなのである。このように、禅における問答は言語を絶した回答としての棒や喝の荒っぽい応酬があったり常識を超えた表現は珍しくはない。



