随処作主 (ずいしょにしゅとなる) <臨済録>

随処に主となる
この語は臨済宗の開祖である臨済義玄禅師が修行者に対して諭された言葉で「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」の一句である。いつどこにあっても、如何なる場合でも何ものにも束縛されず、主体性をもって真実の自己として行動し、力の限り生きていくならば、何ごとにおいても、いつ如何なるところにおいても、真実を把握出来、いかなる外界の渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことは無い。そのとき、その場になりきって余念なければ、そのまま真実の妙境涯であり自在の働きが出来るというものである。
法句経の「おのれこそおのれ自身の主(あるじ)である。おのれこそ自身の拠りどころである。おのれがよく制御されたならば、人は得がたき主を得る」と云う言葉にも通じることであるが、その主となっての自在の働きが万縁万境の中で生き生きとして輝いてこそ立処真なりといえることなのだ。
釈尊最後の説法の「自灯明 法灯明」として知られるが、汝らは自らを灯明とし、法を灯明とし他を拠りどころとすること無くて修行するものこそ最高処にあり」とあるように他により所を求めず、己れ自身の中に真実の自己を見いだすことが肝要である。即ち「随処に主」たれば如何なるマインドコントロールにも影響されることは無いはずである。
趙州和尚は修行僧の「一日二十四時間、どのように心を用いたらよいのか」と云う問いに「(なんじ)は二十四時間に使われているようだが、この老僧は二十四時間を使いこなしておるぞ」と答えている。人は皆同じ二十四時間を与えられているが、時間に追われ時間に使われている人の方多いのではなかろうか。

現代においては、昼夜の隔てが薄く社会は二十四時間稼動して休みがなくなってきている。そこにわれわれも、ついついその社会の流れに巻き込まれ、主体性も無く、動かされ忙しい忙しいとあくせくさせられていることを反省させられる。すっかりゆとりをなくし、時間を失ってきたようにも思える。なんだか知らぬ間に二十四時間に使われていることにあらためて気づき、「随処に主となる」この語が厳しい叱声となって迫る。随処に主となるとは、いつ如何なるところにあっても「ここが仏さまから私に与えられた処」として受け止め精一杯、力の限り生き抜くことであろう。



