身心脱落(しんじんだつらく)<正法眼蔵>
ここで言う脱落は生存競争から落後するとか抜け落ちるという一般的解釈ではなく、解脱と同じ意味で、一切のしがらみから脱して心身共にさっぱりした境地を言う。一切を放下し、何の執着もない自由無碍の精神状態である。

この語は道元禅師が留学僧として宋の天童山・如浄禅師のもとでの修行していたとき、道元自らの悟りの機縁となった言葉である。師の如浄禅師はもともと「心塵脱落」として説かれていたものを道元禅師は自らの悟りの境地から「身心脱落」とされたものらしい。心塵脱落は煩悩(心塵)からの解脱であったが、道元は単に心の煩悩だけでなく身体の煩悩共に解脱しなければならないとした。心塵が是か、身心が是かは定かではないが道元が自ら著わした「正法眼蔵」に如浄禅師は「参禅は心身脱落なり 焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん・・懺悔の法を修して身心を清浄にする)、看経(かんぎん・・お経を唱える)を用いず、只管(しかん・・ひたすら)に打座するのみ」と示し、さらに「身心脱落とは坐禅なり。只管に坐禅するとき五欲煩悩が除かれる」と説かれたと記している。
つまり禅の修行は焼香も礼拝も念仏も懺悔(さんげ)も読経も不用である。只ひたすら座禅することが身心の脱落に通じることなのだ。焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん)、看経(かんぎん)を用いずといわれたからといって、参禅修行においてそれらの行為をすべて排除するということではもちろんない。
それらは悟りにおいての直接的手段とするものではないからである。だが、不用であっても不要では決してない。禅者は日常生活、すなわち行住座臥著衣喫飯そのものが、仏作仏行であり、座禅であり、仏法そのものであると言われていることからでもわかる。

即ち「身心脱落」とは身も心も一切の執着を離れて、自由で清々しい境地への解脱である。道元は「仏道をならうことは自己をならうなり、自己をならうとは自己を忘れることなりと云い、自己への執着を離れ萬法に証せられることだといっている。つまり自己の身心とか、他人の身心とかの相対的執着を離れたところに身心の脱落があるとしたのである。
ここに道元の悟りの風光は「ただわが身も心もはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたより行はれて、これにしたがいゆくとき、ちからもいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ仏となる」と云う言葉が端的に物語っている。さらに悟りの境地にとどまることはまた禅の本旨ではない。即ち身心脱落のところに安住せず、その悟りの境地を広く一般大衆へ、いわゆる衆生済度へ向けての利他の行が求められる。それは身心脱落の悟りから、さらにそれをも脱落をさせたところが「脱落身心」でなければならないのである。



