曇華再發一枝春(不詳)
曇華(どんげ)再(ふたたび)發(ひらく)一枝の春
曇華とは優曇華の簡略したもので、その優曇華とは仏教で3000年に一度花を開き、そのときに如来が現れるとされている想像上の花である。
だから優曇華の花は、めったに無いもののたとえとして使われる用語である。このように曇華再び開く一枝春とは会いがた仏陀にめぐり合い、聞き難き仏法を聞くことが出来るまたとない絶好の好機、幸運に巡り合ったという喜びの言葉である。このことから一般にも広く「めったに無い好機、幸運に恵れ、めぐり合わせにあう」という意味に用いられ「源氏物語」にも恋心として用いられているらしい。

この語は禅宗日課経典の最初にある開経偈には「無上甚深(むじょうじんじん)微妙(みみょう)の法は 百千萬劫(まんごう)にも遭い遇うここ難し 我れいま見聞し受持(じゅじ)することを得たり 願くは如来の真実の義を解せんことを」と述べられているが、まさにその逢い難き正法の時を得たりといった場面である。
われわれは仏教者は「人身受け難し、今すでに受く、仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれのところに向かって 此の身を度せん」とよく先人に聞かされ、また説法としてこの語を使う。
人は皆生まれ変わり死に変わる輪廻転生の道理の流れの中にあるが、人身として生まれ来ることはまことに稀にして、爪の上における土ほどの少ない機会だといわれる。いまその人身をすでに頂いて、また逢い難き仏法を聴く機会を頂いていることは、真に有難く喜び極まりないことではないか。
この絶好のチャンスを逃すことなく真実の道を求め、悟の世界を求めて仏道信仰、修行に励まなければ、はたしていつ救いの時、修行の機会があろうかと厳しくせまられる。まさに「曇華(どんげ)再(ふたたび)發(ひらく)一枝の春」の語もめったに無い仏法への目覚めの時である。

参考ではあるがこの優曇華と名づけられた植物は実際にあり、クワ科のフィクス・グロメラタで中国では優曇華の華と呼ばれていて白木蓮のような白い花が咲くという。もちろん、花の名前だけは優曇華ではあって3000年に一度だけ咲くという花では無い。もまたこれとは別に植物ではないがクサカゲロウの卵も珍しい花状の形から優曇華と呼ばれる。しかしこれは特別珍しいものではない。



