話尽山雲海月情 〈碧厳録〉
話(かたり)尽くす山雲(さんうん)海月(かいげつ)の情
山の心情、雲の心情、海の心情、月の情心、即ち一切のこころと言うのが山雲海月の情で、この場合、親しきもの同士が胸中の心情、境地、心境のありったけを語りつくすさまを表すことばである。お互いの腹の底まで包み隠すことなく、あらいざらいに打ち解けあい語り合う意味である。
ここでは心境を開き大悟徹底したるもの同士が自らの悟りの境地、体得した仏法の何たるかを腹蔵なく語り合う情景を表す言葉であるが、私どもは、悟りの境地、仏法の第一義などと高尚な話の語らいという次元ではないが、大学の同窓会や僧堂の修行者の同窓会である会下の集いのときなど、それこそ雲の沸き出るように、旧友、学長恩師、老師の隔てもなく取引、飾りもなくお互いが懐かしみまさに山雲海月の情さながらの場面がうれしい。

もともと、この語は八祖の馬祖道一禅師〈馬大師〉が弟子の新参者の百丈懐海禅師に対する接化け指導のさまに対して碧厳録の編者の雪竇〈せっちょう〉重顕〈じゅうけん〉禅師がその二人の間の印象を評論、讃えて述べた頌偈の一節である。
馬大師、百丈と行く次いで、
野鴨子(やおうず)の飛び過ぎるを見る。
大師曰く、是れ何ぞ。 丈曰く、野鴨子。
大師曰く、何れの処にか去る。 丈曰く、飛び過ぎ去る。
大師遂に百丈の鼻頭をひねる。 丈、忍痛の声をなす。
大師曰く、何ぞ曽て飛び去らんや。
ある日、馬祖道一禅師は弟子の百丈を伴って出かけたときのこと、山道の途中突然、野鴨がバタバタと飛び立った。馬祖はすかさず「あれはなんだ」と問いかけた。百丈は「野鴨です」と平凡な返答である。馬祖とてそれは野鴨ぐらいはわかっての問いかけである。親の心子知らずに似て、師の親切心を解せぬ百丈である。「ではどこへ行ったか」と次の矢を放つ馬大師。百丈はまたまた馬鹿正直に見たままに「飛んで行ってしまいました」という。そんなことは見れば分かることである。
馬大師はそんな答えを聞きたいのではない。百丈のその心境を訊ねているのである。ついに馬大師は百丈の鼻柱をつまみ上げ思いっきりひねりあげた。「あ痛いたたぁ~。和尚さま何をなされるのですか?」と百丈は悲鳴を上げる。「野鴨は飛んでいったというが、まだここにいるではないか」と馬大師。このとき百丈は忽然として悟りを開いた。

弟子を悟りに導こうとする馬祖の辛辣で痛快な指導に雪竇重顕禅師は馬祖の親切を百丈の境涯を見て頌偈にしたのが
野鴨子、知んぬ、いくばくぞ 馬祖、見来たって相い共に語る
話尽くす山雲海月の情 云々・・・と。



