把手共行 (はしゅ ぎょうこう) (無門関)
手をとり共に行く
宋の時代の無門慧開禅師の話頭を参学の弟子が編纂し著わした「無門関」の第一則に趙州狗子(じょうしゅうくす)という項目がある。通常、「趙州無字の公案」と言われるもので、修行者に最初に与えられることが多いのがこの「無字の公案」である。「公案」とは祖師、先徳の機縁などでの禅的対話や問答などのやり取りを用いて、修行者を悟境に導き練磨する禅門の教育手段の道具である。
勿論、道具と言っても言詮や状況を示すもので機器的な道具ではないことはいうまでもない。

「趙州和尚、因(ちなみ)に僧問う、狗子(くす)に還(かえ)って仏性ありや也(また)無しや。州云く、無。
無門曰く、参禅は須(すべから)く祖師の関(かん)を透るべし、妙悟は心路を窮(きわめて)絶せんことを要す。祖関透らず心路絶せずんば、尽(ことごと)く是れ依草附木(えそうふぼく)の精霊ならん。且(しばらく)道(い)へ、如何なるか是れ祖師の関。 只(ただ)者(この)一箇の無の字、乃(すなわち)宗門の一関也(なり)。遂に之れを目(なず)けて禅宗無門関という。
透得過する者は、但だ親しく趙州に見ゆるのみに非ず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛(びもう)厮(あい)結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。豈(あに)慶快ならざらんや。
趙州和尚は若くして悟ったが、さらに八十にして行脚し、百二十歳まで生きたという禅門を代表する宋代の傑僧である。その趙州和尚のもとに、修行行脚の僧が来て、そこに転がって眠る狗子〈犬〉にも仏性は有るのか、それとも無いのか、と問うた。趙州は「無」とこたえたわけである。仏教開祖釈尊は「山川草木皆尽く仏の性を具備している」と述べられている。しかし、痩せて薄汚れた毛皮を被ったこのみすぼらしい犬にも果たして真に仏性があるのかという問いかけである。趙州和尚は「無」と応えたが、またあるときは「有」とも応えた。
有無の無によらない趙州和尚の肚底の「無」に参ぜよ、と言うのが、この無字の公案である。有る無しの理屈で無い、善悪、寒熱相対を裁断、超越したところの無の字である。
この一箇の無字の公案の関門を透過する者こそ、趙州和尚はもとより歴代の祖師たちと同様に智慧開かれて、一切の道理を明らかになり共に手を把り共に親しく妙悟明境に住することになるのだ。それは実に愉快、痛快のものではないか。という趣旨である。

従ってこの把手共行・・手をとり共に行くとはわれわれ凡人が単に「仲良しこよしで、楽しく愉快にお手てつないで・・」というだけの意味ではない。
しかし、出典の禅意はともかく、禅語に親しむ趣旨からいえば無門禅師が述べた真意とはかけ離れてた別の意味にも解釈しても構わないのが、禅語も面白さである。禅境の一端にでも触れあい、茶道、花道、武道等その道を目指して励み、精進し共に手を把り共に行く中に、目と目、眉と眉とを相い結ぶように、同一眼に見、同一耳に聞こゆるごとき親しみあう好き仲間、よき家庭のづくりの語に活かしても「把手共行」は禅語として一層、輝くのではなかろうか。



