禍不入慎家門 (従容録)
禍(わざわい)は慎家(しんか)の門に入らず
油断大敵と言われるが、ちょっとした過失によって事故災難を招くことがある。禍い、災難と言うものは心の隙について起きやすい。軽率な一言で地位を失うこともある。“注意一秒、怪我一生”うっかり運転で大事故につながる。その様々な禍いを防ぐにはよく慎むということが肝要である。
慎みとは万事に注意して粗忽なきよう油断しないことである。その慎みあるところ慎みある家には禍は穂あらない、起きがたいというものである。

この語の禅旨はともかく普段の持戒謹慎、戒慎みを忘れない要慎こそ大事なことである。ハインリッヒの割合という1:29:300という数字がある。それは一つの大事故の前提として29回の小事故が重ねられていて、29回の小事故に至るまでには300回のヒヤリ、ハッとする場面に遭遇するものらしい。なるほど私も恥ずかしながら何度かの小事故を起こしたことがあるが、その小事故に至るまでには確かに何度もの脇見運転でのうっかり信号の見落としたり、間違えたり、標識を見間違えたり、スピードを出し過ぎたり、最も危険な居眠り運転で中央線をはみ出したりして、ヒヤッとする場面に何度か遭ってきたからなるほどとうなづける。
ということは、事故を防ぐということは、そのヒヤッとするハッとような場面を如何に作らないかということである。それはもう緊張感のもとの慎重な運転より他にはない。この数字の割合は単に車の運転だけとは限らず、私たちの生き方の中にも通用するのではないかと思う。
家庭内における様々なもめ事、不始末や事故など、そのことが起きる前には小さなもめ事の積み重ねがあり、その小さなもめ事に至るまでには何十回、何百回かの不平不満の積み重ね、トラブルがあってのことであろう。
万事に注意して怠りなく用心深くしておれば災禍にあうことは少ないだろうし、たとえ災禍にあったとしても最小の災害にとどまることだろう。「戸締り用心、火の用心」である。昔は「用心」でなく「要慎」だった。
京都西方連山の最高峰の愛宕山に愛宕神社がある。全国の愛宕神社の総本宮で火伏せの神として知られ、7月31日~8月1日は千日詣りとして賑わう。この日にお参りすれば千日分のご利益があると言うことらしい。

今も伝統としてやっていることだろうが、大徳僧堂ではこの千日詣りの日に大徳寺一山を代表して新参の誰かが夜も明けぬ暗いうちから歩いて愛宕山へ登り神社の「火迺(の)要慎」の護符を受けてきて山内の各塔頭寺院にその札を配ったものである。その「火迺要慎」の札を典座〈台所〉の柱などに貼り付けて火の用心を心がけてきたものである。しかし、火元は竈(かまど)でなくて心にあるのである。火の用心は火元の注意を戒め喚起することだが、火迺要慎の要慎は火に対してだけでなく何事に対してもよく慎むということである。禅の修行においても油断怠りなく勉め励み、正念相続していく不断の精進こそが大切なことである。その慎みの正念相続こそが心の家門を守り分別妄想の迷いのつけ入る余地はなく無事平安の境地に至ることが出来るのだ。



