無一物中無尽蔵 (東披禅喜集)

紈素(がんそ)画(え)かず意高き哉(かな)
若(もし)丹青(たんせい)を著(つ)くれば二に堕し来る
無一物(むいちぶつ)中、無尽蔵(むじんぞう)
花あり月あり楼台あり
紈素とは織ったままの白い絹生地をいう。その白絹地と言うものは、純にして清廉高貴の色で第一義である。
その紈素に赤や青など色彩をつければ、それは第二義に堕してしまうだろう。本来無一物だからこそ却って全宇宙の存在のすべてが全自己の命そのものであり、自分でないものは何一つなく、すべてを投げ捨て無一物に徹すれば、そこには真理の姿として一切が無尽蔵に現成されるのだ。
本来無一物とは読んで字のごとく、本来執すべき一物も無い、何も無い、一切空であり、絶対無であることを意味する。分別相対的な観念を全くはさまない世界なのである。本来の心、仏性にはもとより塵や埃はないではないか。
何事にもとらわれない、「空」や「無」と云う悟りさえとらわれないところであるから、煩悩妄想の起きようもないというところの心境をいう。
さらに無一物の境地は、万法に広がる世界であり、限りないものがあり、そのままが「無一物中、無尽蔵」の世界なのである。自分を尽くしきり、無心の徹し切れば宇宙の真源に同和し、全宇宙は自己となり、天地同根万物一体なりで、すべてのすべてのすべては、たった一つ の真実体なのである。

花も月も楼台も悉く自己ならざるはなしである。「華厳経」では一切即一、一即一切の哲学が説かれ、大自然そのものが法身である毘廬遮那仏と応化の釈迦とが同一であるように、我々もまた毘廬遮那仏と同一であり、仏性を持つものとして煩悩に満ちた生がそのまま肯定されて歓喜の内に救済されるのだ。



