承福禅寺
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百不知百不会

百不知百不会 (ひゃくふち ひゃくふえ)

 ここで言う「百」とは限定的な数字の単なる百ということでなく、いろんなこと、さまざまとか諸々、何もかもといったという意味合いとして用いた百である。
 多くの思想家、諸学派の人々の総称を「諸子百家」と言ったり、その人々の自由な論争を「百家争鳴」というように百という限定された数字ではない。
 百不知とはとんとものを知らない底抜けの愚か者。百不会もどうように何もかも会得していない木偶の坊。何をやらせてもまともなことが出来ない役立たずの人を蔑んだ言葉である。

 だが禅家では「抑下托上(よくげのたくじょう)」といって、表面では大変悪辣な激しい言葉を投げかけながらも、実際にはその言葉の裏に、この上なくその相手を尊重し、その人の価値を高く評価する意を込める禅独特の高尚言い回しをすることがある。
 だから「この大馬鹿者!」と叱ることが実はその者を単にに叱り蔑むことでなく、親しみを込めてそのものの力量を評価しうけがう意味合いもある。このように百不知とは知、不知を超えた人、会、不会にかかわらない人であって、一切を忘れきって何物にも執われない超脱の道人、いわゆる悟った人という言葉にも置きかわる。

 我々凡人はちょっと学んで知識を得ればすぐにその知にとらわれ、あるいはその才をひけらかし、知ったかぶりしたり、偉そうな物言いになりがちである。
 本当は何も知ったわけでなく、他人の知識の受け売りをして得意がり賢いように振る舞う小利口な愚か者に過ぎない。
 本当に悟った人、悟り切った人は自ら悟ったということをひけらかしたり、顔にも出さないものである。悟りを知らない凡人の目から見れば「愚のごとく、驢のごとし」という言いように、愚直で物言わぬ驢馬のように愚かに見えるかも知れない。
 たしかに世間では出世したり大活躍したりして目立つことが賛嘆されるが、仏法における本当のよい行いとは世間的評価の基準ではなく「陰徳の行」を旨とする。

 人に知られることがなくても、ただ黙々とひそかに日々に修する信心修行の営みというものは、まぬけのように見えたり、平々凡々に見えるかもしれないが、その陰徳の行によく参禅弁道があり、人間として真の生き方として輝くものである。

 法華信仰に熱心だった宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩を思い出す。「みんなに、木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ 褒(ほ)められもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい」とあり、また自分を勘定に入れずに人々に奉仕したいという願いを込めた一遍の詩の中に賢治の「百不知、百不会」の姿が見える気がする。

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