山花開似錦 澗水湛如藍 (碧巌録)
山花開いて錦に似たり 澗水湛えての如し
まだ寒の内だが、承福寺の庭には早や梅がぽっぽつと開き始めた。雪はまだちらつき、歩行者の転倒や車のスリップ事故の注意の呼びかけがなされている最中である。だが二月ともなればすでに自然界は春の到来の準備や着々となされていることもわかる。多分いつものところに行けば春はすでに来ているに違いないと裏庭の蝋梅の根元を訪ねると案の定今年もフキノトウがちゃんと顔をだしていた。この時期の厳しい寒が過ぎれば一気に春は湧き出すように野山を蓋う。
花はあふれての山は春の気が満ち満ちて来るさまは、まるで「山花開いて錦に似たり」と表現したくなる。また春過ぎれば山は緑に覆われ、谷川の水は青々として淵いっぱいに藍のように湛えて流れゆく。何とも素晴らしい自然の風光だろうか。このようにこの句を自然の素晴らしい風光を表す詩文の名句として眺めるだけでも味わいはある。

だが禅語としてはまた別次元で味わい学ばなければならないことである。そこでやはり出典の碧巌録に訊ねなければ真意は解し難く、原典に当たればさらに禅家の境涯を理解することの難しさも知らされることである。これは中国宋代の大龍智洪和尚とある修道の僧のとの問答の中での大龍和尚の応答の一句である。
その大龍の名は多くの文人墨客を魅了した湖北省の洞庭湖畔にそびえる風光明媚な大龍山に悠々自適していたところに由来している。
僧、大龍に問う。色身は敗壊(はいえ)す、如何か是れ堅固法身。龍曰く。
山花開いて錦に似たり 澗水湛えて藍の如し
僧の云う色身とは私たちのこの世に生きる肉体と精神のことで、敗壊とは壊れ滅することである。人間はもとより形あるものはすべてはいつかは滅びゆく存在である。その移ろい変わる世の中で不生不滅、不増不減の永遠に変わらぬものとしてある金剛不壊である絶対的堅固法身は如何なものでしょうか、という僧の問いかけに応えた大龍の一句が「山花開いて錦に似たり 澗水湛えての如し」である。多少の修学もって問う僧、まことに分別臭く「壊するものと壊せざるもの」と観念にとらわれた、屁理屈をもって問いかけたのかもしれない。
さすがに大龍、さらりとかわして「時は今、春、御覧なさいよ。見上げればあの山この山、何処も花は咲き誇り、まるで錦を織ったようで見事ではないか?またこの大龍山から伏して眺めて御覧なさい。
あの谷川に湛えられている水は青々としてまるで藍を流したように見事ではないか?」と応えたのだ。ところが、問題はこれをどう受け止めるかなのだ。さらに修行して出直してこいということなのだろうか。
大龍は自然の風光をめでながら、また美しい山花はやがて散り、深く藍のように湛える谷川も静かに動いてやまない無常の相をも示したのである。
そして、さらに堅固法身の永遠に変わらぬものを求めた僧に対し、大龍は常に移ろい変わる無常の真理を示しながらも、その無常そのものに常住永遠の真理を示したのかもしれない。

すなわち私ども昔から詠いつがれる「いろは歌」の原典の仏教経典の涅槃経中の無常偈(むじょうげ)に「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大安楽がある)というところに私は思いをはせた。
生きとし生けるもの、あらゆる物体はすべて時の流れと共に移り変わり、生成変化して、この世には固定的ものは何もなく、無常であり、すべてのものは因と縁によって結ばれた仮の相(すがた)に過ぎない。この無常なる現実の仮相世界を超越し、不変の実相世界(真理世界)を悟れば、浅はかな夢を追い求めることなく、執われ迷いさまようこともない平安の境地で「山花開いて錦に似たり 澗水湛えて藍の如し」と自然のすばらしい風光を心から楽しむことができるのではなかろうか。



