一鉢千家飯 孤身万里游 〈禅語類驟・五灯会元〉
一鉢千家の飯 孤身万里に游(あそ)ぶ
一椀の自鉢を持ち、ただ一人諸方を托鉢行脚して食を乞い一人歩く修行者としての境涯をいうが、一軒一軒周りながら小さな恵みを受けながら、おかげを受けながら生かされていることの有り難さを味わう。

これは単に僧侶の行としてのみの言葉であると考えては禅語としての味わいは無い。たとえば営業マンとして、一軒一軒のお客様を回り物を売るなど、地道な努力がいるものである。多くの顧客に支えられて自らの成績は上がり、会社は成り立つ。一社のみとの大きな取引も有り難いが、共倒れ等の危険も含む。むしろ小さな多くの取引のお客に支えられていることのほうがより安定した会社経営となるものである。昔、銀行の頭取がこの「一鉢千家飯」の語を用いて社員へ対して、大取引先ばかりに目を向けるのでなく、一人一人の小さなお客様を大切にして回ることを訓示としていたという。
托鉢はいわゆる行乞であり、乞食の行で古代インドから伝わる出家修行者の生活の糧であると共に、修行手段でもあった。大徳寺の開山・大燈国師さまも五条の橋の下で乞食の仲間に身を投じて下座乞食行をされている。純粋に人様の恵みを受ける上においては己を虚しくなければ出来難い行でもある。
日本においては網代笠(あじろがさ)を深くかぶるのが普通であるが、それには、三輪清浄(さんりんしょうじょう)の精神が生かされているのだ。三輪清浄とは「施す人」と「施される人」と「施しされる物」、その三者には互いに何の執着も利害関係を持たない清浄な関係と云う意味である。だから行乞にでるとき修行者は深く網代笠かぶり、顔を隠して施す人と施しを受ける人が顔を見合わせることを防いできたことである。見合わせなければ、誰からもらったとか、誰にやったとかいう利害関係は生じない、純粋な施しがなされるからである。

布施は恵み施す行為であり、相手を思いやる心であり、無償の行為で、見返りや何かの功徳を求める気持ちがあってはならない。自ら施しの行を通して、施しの喜びを味わい、また執着、物欲からの解放されていく大事な仏行である。



